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ぼやき

2007年9月27日 (木)

ぼやきたい日2

Cimg0162 最近、世の中って人間のどういった要素が重視されんのかなって、ふと考えたんですよ。そんな細かく分けなければ、実力っていうものが大前提としてあるわけなんだけど、その自分自身の資質以外にも「ツキ」、もしくは「運」っていわれる要素はやっぱりあると思うんですよね。例えば、人の生まれる家庭。これはもはや運以外の何物でもないでしょう。日本の裕福な家庭に生まれるのと、北朝鮮の貧困した家庭に生まれるのとではエライ違いですよ。むしろ、人間に生まれた時点で、もう幸せなのかもしれない!って考えたけれど、そこはちょっと早まったかなと訂正したくなった。それは、人間観に視点を置いた二つのマンガを最近読んだからだ。

一つはジョージ秋山の「アシュラ」、もう一つは花輪和一の「鵺」の中の"亀男"という作品。前者は、飢饉の時(平安時代)に気の狂った女から生まれた子供が焼かれて親に食われそうになるが、なんとかその場は逃れ、独りで色々な困難にあいながら生きていくという話。人間が生きていくことの苦しみ、生まれてきてしまったことに対する憎しみが描かれている。これは、一元的に言うことは出来ないが、例えば、堕ろされてしまった子供は果たして生命としてこの世に生まれた楽しみはあったのか?しかも、自分への死の宣告を与えたのは、自分の親なのだ。これを考えてしまうと、「生まれてきたこと=素晴らしいこと」という当たり前だった図式が成り立たなくなってしまう。つまり、それは「人間に生まれてきたことは運がいいことだ」という構図も同時に壊れてしまうのだ。「生きていくことの苦しみ、生まれてきてしまったことに対する憎しみ」といったことは、人間にしか考えられないことだからだ(少なくとも今の科学的にはそうなんじゃないか)。

では、もう一つの"亀男"という作品はどうだろう。ここではまた違った視点から人間社会に生まれたということを見つめなおすことが出来る。この話は、領主の気の弱い息子(平安~鎌倉時代)が、自分は戦いなど好まないので、亀になりたいと願い、なるという話。設定は突飛だが、そこからは厳しい人間社会から飛び出し、亀のような平穏な暮らしがしたいという考えが見えてくる。これには確かに納得してしまう(ここでは、「亀」が重要なのではなく、人間のあくせくした社会の対比として亀社会が用いられている)。生き馬の目を抜くような人間社会に疑問を持ち、自分はむしろ平穏な暮らしがしたいということを考えたことがある人は必ずいるはずだ。ここからは、全ての人にとって、人間の暮らしが最上位ではないと考えることができる。

この2作品からも「人間に生まれた時点でもう幸せなのかもしれない」ということはたやすく言えなくなってしまう。しかし、人間に生まれた時点で、もう他に生まれることを選択出来なくなってしまっているんだよな。ならば、人間社会での幸福を得るために努力していかなければならないんだよね。

ぼやき書くと毎回キモくなるな。でも、ブログなんて好き勝手書くんじゃい。こんな文章見てもひかないでください。あっ、てかこのマンガ買ってください。結構名作なんで。